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自分の人生はあとどれくらいか?

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残りの人生はどれくらいか?
目次

自分の希望を伝えているか?

「自分の人生の残りはあとどれくらいなのか?」

これを考えることはとても大切なことなのではないかと思います。

私は自分の人生を永遠のものだと思わないし、自分の死に対してかなり正面から考えてきた方だと思います。

30代にはエンディングノートを書き、自分の死後にして欲しいことの希望も書いてあります。

逆にまだ健在な70代の両親に自分の葬式や墓の希望を聞いてみたら、ちゃんと考えていないようで、軽く怒られてしまったことがあります。きちんとまとまっていないようだったし、向き合えていないように感じました。

でも、私からしてみたら、「実際、亡くなったときに葬式やお墓の希望を伝えていなかったら、自分の希望通りにはならないよ?」と思います。

「遺された人の自由にして欲しい」というならば、そう伝えたらいいと思います。そうでなくては、遺された人たちで面倒な話し合いをしなくてはならなくなるかもしれない。

急な事故や病気になるかもしれない。それは誰にもわからないのだから、きちんと考えをまとめたらいいと思います。

もちろん死がこわいと思っているのかもしれませんが。

そう思う一方で、逆に「自分の人生がいつまでか」がはっきりしないから、向き合えないのではないかとも思います。

人生100年時代というから、まだ何十年もあるのかもしれない。この「かもしれない」が大きいのです。

私は「自分の人生の残りはあと何ヶ月」という形で捉えています。

どういうことか?

“自分”の人生の範囲

あなたは「自分が0歳児だったとき、あるいは1歳児だったときの自分を、自分の人生にカウントしますか?」

私は自分が0歳の赤ちゃんだった時や1歳児だったときのことを全く覚えていないです。

1歳のときには弟が生まれたこともあって、一時祖母の家に預けられていたようです。

しかし、その事実を知ったのは、20代のときに祖母の葬式のときでした。

親戚のおばさんと祖母の親友に「こんなに大きくなって」ととても愛情深く、目を細められて、話しかけられたときにはとても驚きました。

私は2人の名前も知らなかったし、そういう人がいることすら知らなかったからです。

そして、「自分に対してこんなにも愛情深く接してくれる人がいるなんて」と、とても感慨深い思いをしました。

正直、うちの実家の家族はあまり愛情深いほうではないので、より一層嬉しかったのを覚えています。

少し話がそれましたが、「1歳児はたしかに私の人生の大切なとき」なのだろうと思います。とてもありがたく思う気持ちがあります。

しかし、「“自分”の人生」かと問われたら、「とてもそうとは思えない」というのが実際のところです。

どういうことかというと、たしかに私は1歳のとき祖母の家に預けられて、そこで親戚のおばさんが訪ねてきたときには可愛がってもらったり、祖母の親友の孫と一緒に遊んでいたのは事実なわけです。

それはたしかに「私の人生の一部」です。ただ、それでも「私は覚えてない」し、「“自分”の人生」にはカウントしないということです。

少なくとも「私の意志があった」とは感じていないのです。

「“自分”が確立していない」のです。

自己認識はいつからあるのか?

いわゆる「ものごころがついた」時からが自分の人生なのではないかと思います。

一般的には、ものごころがつくのは3~4歳ではないでしょうか?

私の一番最初の記憶は2歳の頃のようです。

昔の実家で飼っていた青いインコの話をしたら、兄がそんなことを覚えているのかと言われました。

ただその後の記憶は断片的で幼稚園に上がる前の年(当時は4~5歳の年中からが一般的だった)に引っ越しているのは明確に覚えているので、「4歳児の記憶は確実にある」という感じがしています。

当時、住んでいた家で使っていたお気に入りの三輪車は黄緑だったことや近所のガレージに登って頭から落ちたことなどはかなりはっきり覚えているし、引っ越しの内見のときに食べたラーメンばぁというお菓子のことだって覚えています。

そういう意味で「私の人生は4歳から」という感覚があります。

もちろん40歳となった、今では印象的な場面しか覚えていません。

それは小学生の頃のことや中学生の頃でも同じです。

全てが遠い昔のことです。

それでも私にとって「“自分”の人生は4歳から」というのが実感値としてあります。

一方、私の妻は幼稚園時代のことを全く覚えていない、と言います。

ただ「全く覚えていない」と言っている人たちの話を聞いてみると、「ほとんど覚えていない」「こういうことしか覚えていない」という感じで、覚えていることが断片的だったりすることを「覚えていない」と認識しているみたいでした。

私からしてみたら「覚えているじゃん」と思うわけです。

つまり、「覚えている」と言っている人とあまり変わらない記憶を「覚えていない」と言っていることが多いようです。

どちらかというと記憶を言葉で説明するのが得意かどうかの差のように感じます。

まぁ、それでも、一般化するなら「5歳からなら大体の人が覚えている」と言えると思います。

そういう意味で「“自分の”人生は一般的に5歳から」としたらシンプルだと思います。

自己認識はいつまであるのか?

では、逆に「“自分”の人生はいつまでなのか?」ということも考えることができます。

例えば、今年100歳の人たちを集めたお祝いをテレビ番組で観たのですが、100歳でもきりっとした顔ではっきりと話している人たちがいました。

そういう人たちは「自分の人生を生きている」と思います。

一方で、私の祖母はアルツハイマーで晩年、記憶を失っていました。

私が会いに行っても、誰だかわからないようでしたし、記憶はかなり曖昧でした。

小さな頃のことを聞いてあげたら、それは覚えているらしく、ぽつぽつと話していました。

90歳近い年だっと思いますが、この状態は「自分の人生なのか?」と考えると、私の場合は「自分の人生とは思えない」というのが実際のところです。

ものごころ付く前の状態と同じです。

私にとって、自分の人生は「自分が自分の意志を持って考え、記憶しているかどうか」が重要なようです。

そうすると、一般的にはその状態は何歳までなのか、を調べてみることができます。

私が調べた限り、70歳くらいから認知症とは言わないでも、認知に課題を感じる状態の人が増え、80代前半には認知症の人が5人に1人、90歳前には2人に1人、95歳以上だと80%の人が認知症とのことです。

認知症にはなっていなくても、予備軍の人たちはたくさんいるわけで、80代で若い時に比べて認知に衰えが全くない人たちは、ほとんどいないでしょう。程度の差こそあれ、ある程度問題が出てくるのだと思います。

認知症も程度がありますが、私の場合は認知症になったら、自分の人生にはカウントしないと思っています。

それは1歳児のときの話と同じです。

私にとって、また周囲の人にとって大切な人生の一部かもしれませんが、「“自分”の人生」という感じはしないわけです。

私の場合は自分の人生は「80歳まで」としました。

80歳以降もおそらく生きていますし、おそらく自分で考えて、自分の意志を持ち、自分の記憶を持っていることでしょう。

しかし、70代から認知的には衰えがあり、もしかしたら80歳より前に認知症になってしまうこともあるかもしれませんが、80歳までは、まぁ大丈夫なのではないかと思う年齢です。

だから、80歳から後の人生は「延長戦」あるいは「アディショナルタイム」だと私は位置付けることにしました。

「認知がはっきりした80代以降があったらラッキー」という感じです。

これは2歳や3歳の記憶があって、少し自分の人生であると感じられるのと同じです。

人生の残り期間はどれくらいか?

まとめると、私にとって“自分”の人生は「5歳から80歳まで」です。

つまり人生75年間ですね。

月にすると900ヶ月です。

また終わりが決まれば、残りも計算できます。

私は執筆現在40歳4ヶ月ですので、「私の人生の残りは39年8ヶ月、476ヶ月」です。

ゲームで例えてみると、私の残機は476で、毎月1機を消費しているような感じです。

お金で例えみると、私は476万円の札束を持っていて、毎月1万円使って人生を送っているような感じです。

自分が人生でやりたいことを、毎月1万円のお金を消費しながら行うのが人生なわけです。

20歳の人は残り720ヶ月。
30歳の人は残り600ヶ月。
40歳の人は残り480ヶ月。
50歳の人は残り360ヶ月。
60歳の人は残り240ヶ月。
70歳の人は残り120ヶ月。
80歳の人は延長戦に突入。

そう考えると、限りある人生を大切に生きやすくなるのではないでしょうか?

後世に何かを残す生き方

渋沢栄一の言葉に「無欲は怠惰の基(もと)である」という言葉があるそうです。

私はこれを深く実感していまして、30代前半で20歳くらいからの夢だった「世界一周旅行」に行けて、「起業」もして、「結婚」もして、なんだか「もう人生でやりたいことがこれといってないな」という状態になってしまったことがあります。

私は幼い頃から身体が丈夫ではなく、すぐに風邪をひく子どもでした。だから、漠然と「35歳までは生きられないだろうな」と長年思っていたことがあり、「120歳まで生きるぞ!」と言ってみることもありましたが、生きる気力が弱かったと思います。

ただ、35歳を過ぎても「まだ生きてるな」、36歳を過ぎても「うん、生きてる」、37歳を過ぎても「、、、生きてる」となかなか死は訪れて来ず、逆に「これは何か人生の目的を改めて見つけないと」という気分になりました。

そして、ここ数年で仲の良かったクライアントさんが亡くなってしまったり、小学校の時の親友が亡くなったことを聞き、より一層その気持ちを強くしました。

私のクライアントさんは60代で筋トレの講座などを教えていて、とてもパワフルな人でした。オンラインの講座に私も生徒して参加していて、動画を観て学ばせてもらっていました。

しかし、彼が亡くなったら、全てが消えてしまい、なくなってしまいました。動画もそうだし、ホームページもブログも消えてしまいました。本も出版していなかったので、SNSのアカウントを除けば、本当に何もないのです。

生きた証ではないですが、世に残し、後世の役に立てたらという気持ちが強くなりました。そうしたものを残せたらいいな、と残りの476ヶ月を費やせたらと思います。

今回の話が、何か参考になっていたら幸いです。

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この記事を書いた人

長谷川大輔のアバター 長谷川大輔 人生の帰路で出会うコーチ

日本人として初めて世界No1コーチと呼ばれるアンソニーロビンズ氏のコーチング会社のコーチ認定プロセスを修了。独立後、プロコーチ歴12年。東京、大阪、名古屋、福岡でセミナーを開催。のべ数千名。

現状に満足しておらず、何か仕事や人間関係、人生に変化を起こしたい、何かを変えたい時のヒントを提供しています。具体的には心理学をベースとした変革の方法、人間関係の課題解決、目標設定や時間管理、パフォーマンス管理などについてお伝えしています。

クライアントさんの中には、数千万円稼げるようになった人や理想の結婚をした人や家族関係が回復した人やダイエットに成功した人や長年の悩みが解決した人や人生の目的を見つけた人など、人生が変わった、人生が劇的に良くなったと報告してくれる人たちが多数。

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